「嫌われる勇気」が流行っているが

社会的地位を確立している人のための考え方だ

 最近アドラー心理学についての本「嫌われる勇気」が流行っている。もしくは流行っていた。3か月前くらいに本屋に入るとすぐ目につくような店が多かった記憶がある。

 僕も1年前くらいにその本を実際に読んでいて、「人は引きこもりが嫌で治したいと考えてはいるが、本当は引きこもり生活が一番楽だと感じているから引きこもっている。」だとか、「俺の言ったことをどう受け止めるかは、それを聞いた人たちの課題であり、それについて悩む必要はない」だとか。ホリエモン的考え方が結構強い気がした。

 けど僕が思うに、これは世間一般人が真似して良い考え方ではないと思う。トランプ氏やホリエモン橋下徹さんのように言いたいことをずっばと一般人が言ってもただ嫌われるだけだ。さらに他人と意見の違いが生まれ、他人と自分を分別するようになり、生活の幅が狭まる。

 社会的地位を確立していてる場合とは全然違うのである。彼らは僕ら一般人とは違う世界観の中に生きている。一般人は、橋下徹さんやトランプ氏のように「ずっば」と物事を時には厳しく怒鳴ったりして、自分の意見を言う人に憧れているが、それは自分の身の丈に合っていない。中学生がブランド物をただつけて街を徘徊しているのと同じで、身の丈に合っていないのである。

 

ずっばと意見を言える人=かっこいいが今の時代の主流

 いまの主流はそれだと思う。だからトランプ氏や橋下徹さん、ホリエモンなどに人気が沸く。だから出世したいのならば、businessの場でのみ「嫌われる勇気」を持って「ずっば」と意見を言えばいいのである。私生活にまでそのような思想を持ち込むことはナンセンスだし、バランスが悪い。メリハリをつけよう。

 自分の意見に周りが全く共感してくれないと嘆くこともあるだろう。その場合は共感してくれない周りよりかは、自分の意見を熱く押し通そうとする人はそのことについて深く考えている人だとは思う。

 けれど私生活でそのように熱く問いかけても誰も答えてくれないし、引かれる。そんなメリットの無いことをするなんて馬鹿だ。

 

私生活では「嫌われないように」するのが普通だ。どうか、今の流行りに流されて「嫌われる勇気」を、僕ら一般人がはき違えないように。

なぜサラリーマンになるのか

もともと自分の夢を無理やり探す

 人間とは大昔からいるが、果たして縄文人がみんな「夢」を持っていたか。はっきりと断言できないが僕は持っていないと思う。(もともと人は夢なんて持たない生き物なのかもしれない。)

 現代は小さいころから「夢」を持たされる。その夢に向かって努力するように強要される。そして思考の一貫性から人間はその「夢」を持ち続けようとする。本当は夢でもなんでもないのにである。

 「昔から警察官になりたくて~」などと口にする人が多々いるが、一部の本当になりたい人はいると思うがそれを除いたら、その人達の心の奥底では本当は警察官になんてなりたくないのだ。なりたくないのに自分を偽ってそれを昔からの「夢」であったと思い込む。

 なぜ思い込むかというと、小さいころから「夢」を持ってない人は情けない人で、夢を成し遂げれた人は凄い人。という洗脳がおこっているからだ。

 つまり自分が不幸にならないように、夢を無理やり探し、夢を見つけたらそれを自分の「夢」だと思い込み、それに向かい努力し時間を費やす。その結果、心の奥底ではなりたくないのに努力した時間をドブに捨てるような行為はしたくないのと一度決めた事を変えなたくない(思考の一貫性と損失回避)のでそのまま就職へとつながる。

 そして夢でもなんでもないのに夢だと思い込み仕事をしている人が多い。その証拠として仕事の前日に「仕事めんどくせぇ~」という言葉が頻繁に口からでてくる。

 

じゃあなぜサラリーマンになるの?

 今の時代「フリーター」でも衣食住はできる。つまり昔でいうと、確実に狩りが成功し毎日生きていける状態だ。つまり生きるために働くなら「フリーター」で充分なのである。だが「異性との性交」という欲望が満たされていない。

 「フリーター」になると一気に異性からの印象がダダ下がりするのである。クラブに行き異性(主に女性)に「フリーターです。」というと、「あっ。(察し)」という感じになる。ここで「正社員として働いてます」というと印象が良いのは誰もが知っている。

 衣食住が整っていて、不特定多数の異性(主に女性)に相手にされるのが確実である世の中ならば、人間はシフト制かつ責任が少ない「フリーター」を選ぶはずなのだ。(責任のあることを仕事にしたい。というのもその人の思い込みである。責任を感じるのが好きならサラリーマンにならなくても、昔から責任を背負うような行動を沢山起こしているはずだ。だがしていない人が多い。)

 つまり異性(主に女性)に相手にされたいが為に「サラリーマン」として働く人が多いのだ。(一部の人間はサラリーマン大好きなのもいる)

 そして「サラリーマン」は普通に考えてつまらないものである。それをする自分が不幸だと自分自信で思いたくないが為に「夢」を無理やり作る。

 

 庶民というのは意外に何も考えていないので、「フリーター」=「頼りない」のイメージが蔓延っていて、異性(主に女性)に相手にされなくなることを恐れてサラリーマンとして無理やり働く。まったく、、、男性には大変な世の中だ。縄文時代なら確実に獲物を捕らえてくる男はモテモテだっただろうに。現代では確実にお金を稼いでいる「フリーター」であっても異性(主に女性)から認められない世の中なのだ。

 

貯金は心を豊かにする

以前お金を使いまくれと記事で書いたが

 僕の前の記事で、お金を若いうちに使っていろいろ経験したほうがいい。という意見を述べた。その考えは今も変わらない。経験するにはお金は必要である。

 そして今回は貯金は心を豊かにする。である。

 一見矛盾しているように思えるが、少し違う。

 

とりあえず100万はキープしておく

 若いうちから100万キープしておくと、お金に対してゆとりがモテるのである。例えば、女性をナンパするとき、貯金が10万程度しかないと「お金は大丈夫だから。」ぐらいしか言えないのである。この時、女性は「彼はあまりお金を持っていないが、我慢しているのね。」と感じる。女性はそういうのに敏感だ。(平気でうそをつける人は別)

 そこで100万の貯金があると、「お金については気にしないで。もってるから」とATMから5万程度おろすことも容易になってくる。

 すると人間は表面上だけでモノを判断する人が大半なので、「彼はお金をもっている。どんなことをしてるかは分からないけど」となる。

 そしてそれを思うタイミングで「昔からしっかり沢山貯金しておいてよかった」と一言いえばいい。それで女性は「彼はお金をもっていて、計画性がある人だわ」となる。

 

 つまり自分の株を上げるために100万はキープしておこう。そうするとおのずと、こころにゆとりができ、女性からは少しではあるが魅力的に写るだろう。

ニーズとは何なのか

身近に起こる「ニーズ」

 僕は高校生の時、高校のテストの最中に鼻水が大量に出た。しかしその時、ティッシュを持ち合わせてはいなかった。そして心の中で、「いまならティッシュ1枚に100円は出せるわ~」と感じた。

 たかが紙切れ一枚に100円は余裕で出せる。と思ったのだ。

 つまりこれがニーズである。

 

ニーズは利益に直結

 ニーズは利益に直結する。そのニーズが大きければ大きいほど利益はでかくなる。そのニーズが頻繁に起これば起こるほど利益が増える。

 つまり、お金を稼ぎたいなら「ニーズ」を見つけ出すことが手っ取り早いのである。

 

ではどのようにニーズを見つけるか

 これはもう「パクリ」しかないのだ。今のような情報社会で、独自のアイデアなど無いに等しいので、既存のサービスを「パクる」のである。

 そしてこの「パクリ」を、自分なりにアレンジし、最も消費者の「ニーズ」に合致させた人がお金を集めることになる。

 

ブランド設立する人たちの失敗

 では、ここで間違えてしまう人たちの例を洋服ブランド立ち上げの人で出してみる。

 彼らはこう意気込む「オリジナルで勝負するぞ」と。

 これはもうナンセンスなのだ。オリジナルで勝負できるのは有名ブランドか、有名人が立ち上げたブランドなのである。

 新洋服ブランドはまず、いま流行りの洋服をもっとシンプルにして安く提供することから勝負しなくてはいけないと思う。そうしてお金を稼いだら、新ブランドを立ち上げて高級路線にいけばいいと思うわけだ。

なぜ大人は新しいことを習得するのが遅くなるか

子供のころ

 子供のころは、「まずはやってみる」という環境が自然と大人たちによって用意された。例えば今は、子供にプログラミングを教える親が増えていると聞く。そのとき子供たちは開発環境、PCの購入およびスペックの選定などを考えずに済む。すると、とりあえず触れてみるだけになる。とりあえず触れてみることは、ほかのことを配慮しないので習得スピードは上がる。なぜなら無駄なことを考えずにコードを決められたとおりに組んでいくため感覚のみが養われる。その感覚はセンスになって習得スピードは、努力によりえげつない成長になる可能性を秘めている。

 大人になるとそれは全然違ってくる。まずPCの開発環境の準備、どのようにして学んでいくか、いかに早く上達するか、周りのレベルと比べて自分はどうか、この程度のレベルで職業になるか。いろいろと考える。

 そのため情報が多いのである。情報が多いと人は、いらない情報を排除するスピードが速くなる。すると「前日に覚えたメソッドの使い方を忘れた。。。おれセンスないな」という状態になる。それは当然なのである。

 いくら考えても、もともとの感覚が養われていないので習得が遅いのは当たり前なのである。だから気にすることはない。

 

順番が違う

 あらゆることで僕は「感覚を養う→努力→努力→努力」なのだと思う。

 それが大人になると、時間的制限や見栄、はやく上手くなりたいという欲から「努力→努力→努力」そしてその間に感覚が養われるだろうと考える。(それが効率よく上達するには一番早いの方法だ)。しかし、ほんとはこれでは感覚が養われないと思う。なぜなら、子供より頭の良い大人が挫折をするのに、大人より知識がない子供がぐんぐん上達するというおかしな現象が古今東西で起こる。(俺にはセンスがないんだ。。となる)

 

右脳をつかってイメージを養いまくること

 まず新しいことにチャレンジするには、右脳を使うことが良いと思っている。左脳はいったん置いておこう。

 たとえばプログラミングのメソッドを擬人化してお絵かきしてみたり、ただただそのメソッドを同じ使い方をして何回も打ちまくるとか。

 なにも考えなくていい。感覚だけをまずは養えばいい。極論目をつむって、そのメソッドをうまく使ってコードを組むなどレベルにまで到達できるくらいに。

 ハードウェアの仕組みや、ファイルの整理、オブジェクト指向、いまのはやりの組み方、設計書、テストをどうするか、優れたプログラマーの自慢話、新技術、今この言語が熱い!!、いかに効率よく学ぶか、この情報誌には目を通しておけ!。

 そんなことはほっておこう。俺らには知ったこっちゃないのである。

 まずは、ただ打つだけである。

他人を許すという行為

のちに自分を許せることになる

 人には多かれ少なかれ「嫌な行為」がある。例えば僕なら、男性が女性に甘い言葉で数うちゃ当たる作戦をしていると「この人嫌だな~」と思うし、僕の話をちゃんと聞いてくれようとしない人にも嫌悪感はある。

 しかしここでそれらの行為をいちいち批判していると、心の中は憎しみが多くなるし、人間関係もギクシャクしてくる。

 なので、「他人を許す」ことが大切になってくる。だが、人はそう簡単に他人の卑劣な行為を許すことはできない。だからTwitterでは炎上するし、街では殺人すらおこる。

 ある有名な作家さんが、「なんか胡散臭いには、理由がある」的な記事を書いていた。その記事によると、いつも綺麗事をいう人は「なんか胡散臭い」。それには理由があり、人間は「善い行い」をしたら善ポイントが溜まり、もしも悪いことをしてしまった時にその善ポイントを消費することで自己肯定しようとするらしい。(自分は意識していないことが多いが)

 ではこれを参考にして発想を変えてみたらどうだろう。他人の「卑劣な行為」を許すことは、未来に起こりうるかもしれない自分の「卑劣な行為」を自分で許せるために、今は他人を許しておくことにしよう。と考えると意外と許せる。

 そして自分に対しても寛容的になり、いままで許せなかった憎しみの心は、自然と無くなり心に「ゆとり」が生まれるのである。

 

ゆとりが生まれるとうまくいく

 人は精神的に窮屈な状態にあると悪い運を引き寄せるようにできている。それは誰しも経験していることだろう。人ごみにイライラし、周りを不快にさせ「トラブル」につながる原因をつくる。気持ちが萎えていると、無気力になり体の調子が不調になり、外見にも吹き出物がでたり、ひげを処理しないなどの症状がでる。

 こころにゆとりがあると、その逆の現象がおこりやすい。満員電車でもイライラせずトラブルをおこさない。しっかりとひげを剃り、髪形を気にする。

 つまり他人を許せるということは良いこと尽くめなのである。他人を許すことで、周りからは寛容で責任感のある人などと評価を得て、もし自分が愚かな行為をしてしまった時でも自分を許せる材料にもなるし過去に自分が許した人からは許される可能性が高く、自分のこころの調子が整うと体の調子も整う。

 以上のことから、「他人を許す」ということを僕はオススメする。

社会は意外と厳しくないのかも

ちょっと面白い

 例えば、30代で会社を突然やめた人がいたとしよう。彼になぜやめたか聞いてみると「いやー、(ある人に出会って)お金を稼げる方法が見つかってサラリーマンで働くのはバカバカしいと感じたんだよ。」と答えが返ってくることは多くある。

 これを聞くと社会からみたら「あー、こいつこういうタイプね。俺は関わりたくないわ」と思う人もいる。そして「お前何やってんの?大人だろ?」という批判に変わっていく。

 こう考えると一見社会は、結構厳しいのだ。他人が他人に評価し合い、それが自分の人生に影響を与えるからだ。

 

 だが、なんで会社を辞めたんだ?と聞いたとき「ん?会社なにそれ?忘れちゃったな~。おれ働いてたっけな~」とかふざけてみると意外にも「こいつほんとバカだな~。なんか憎めないけど。」となることがある。

 このなんか憎めないなと思う人が一定の割合でいてくれると意外にも社会というものは厳しくない気がするのである。周りがどう言おうと僕には~達がいるから大丈夫と思える。

 つまりちょっと面白い人生を歩んでいる人には、一定の割合で寛容的な態度で接してくれる人がいるのである。人は違う刺激を求めたいものだ。だから不倫とか、流行とかがある。

 そして、自由に生きたいなら、社会批判をしてはいけない。自由に生きる人には社会批判はつきものである。「日本人はつまらない」だとか、「働け働けって。そんなに働いて楽しいのかよ」とか。

 だけど、自由生きたいなら人に愛されるちょっと面白ろく、心が優しい人になることが大切だ。

 そうすると社会というのは意外にも寛容的で、厳しくないのかもしれないな。